昭和30年代の奈良市興ケ原町。山の子たちはいろいろなことをして遊んだが、日常生活の中で風呂たきや農作業など一定の仕事も任されていた。中でも正月前のシダ取りは、当時の子どもたちの大きな仕事のひとつであった。
もうあと数日で正月という年末、山へ分け入り、ウラジロをとってくるのである。みな荒縄をローソク結びにして腰にぶら下げ集合する。師走の寒い中、幾ばくかの緊張感を感じながらの出発である。
先頭はもちろん6年生。先輩から受け継いだ道順を辿っていく。もちろん標識や目印があるわけもない山の中の小道。分かれ道がいくつもある。迷いそうなところは確認を取りながら進んでいく。こんな山の中にと思うくらいのところに狭い田んぼがある。そこへ通うためにこのような小道も拓かれたのだろう。
小1時間も歩いて目印の大岩に到着する。ここが一行の休憩所である。畳3畳ばかりはありそうな岩の上に子どもらが座り一服する。岩には松の根が入り込んで亀裂が入ったりしているが、そのわけを上級生が得意そうに解説したりする。もちろん、先輩からの受け売りである。
休憩地からは目的のウラジロの自生地はほど近く、到着するや否や、子どもらは親から聞いた必要枚数を目標に一心不乱に取る。そして、収穫物を荒縄でまとめ、背に担いで帰るのである。
この道はいつ頃まで道として機能していたのだろうか。山の田んぼへの行き帰りに使われ、また、昔は雑木を材料として炭を焼いていたので、冬場にもそれなりの往来はあったのだろう。夏、草が繁茂すると「道刈り」が行われ、道が失われることはなかった。それは、百年単位あるいはそれ以上に及ぶ営みであったのだろう。
しかし、昭和40年代までに、山里にも燃料革命の波が押し寄せ、炭は焼かれなくなる。また、勤勉な農の従事者達は老い、山の田んぼも放棄されていった。
道刈りは行わなくなり、かつて少年達が辿った道はただただ草木の繁に任せるばかりである。
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