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「なんで来たの!お前たちに、もしものことがあったら戦地のお父さんにどう申し訳ができるか!」恐ろしい見幕だった。
昭和19年夏のこと、赤痢や腸チフスが流行し、どの隔離病院もいっぱいだと聞いた。母の叔母もかかり、看病に行った祖母も倒れ、その世話に行った母は2週間近く家へ帰れなかった。
母恋しさに3歳半の妹は毎日泣いた。姉の夏休みを待って、母の所へ連れて行ってもらうことになった。
家から15分くらい歩いて電車に乗り、田原本駅から新町通りへと抜け、町外れから八尾村までの一本道は、六丁道と聞いていた。子どもの足では、いつ母の所に着くのか不安になるくらい遠かった。
右手にこんもりと神社の森が見えると「もう、じきやで」と姉の言葉にほっとした。ぐずる妹の手を引き、おぶったり、なだめたりして、やっとたどり着いた母の第一声が、先の言葉であった。
家の中へも入れず、水一杯さえも飲ませてもらえず追い返された。
必死に涙をこらえて歩いた。畦道の両側には稲が青々として、小川には田に水を入れるため、せき止められて溢れ落ちた水底には川エビが跳ねていた。もう我慢ができなかった。
思わず川に入り、両手で水をすくい口から出るほどにがぶ飲みした。日なたくさい臭い、土の臭いと乾いた草の臭い、生ぬるい水の味であった。
朝家を出て、夕方近く帰るまで、ひたすら歩いた1日だった。
姉は9歳、私は5歳、妹は3歳。母の留守中、姉妹3人どう暮らしていたのかまったく記憶にない。近所でもらい風呂をさせてくださったり、おかずも時々いただいたと姉は話してくれた。
日支事変から太平洋戦争へと出征した父は、無事、昭和21年夏にビルマから復員した。
あの遠かった八尾までの道のりを歩いて実感してみたいが、痛めた足には自信がない。
夏を迎えるたびに思う水の味と切ない思い出である。
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