道からはじまるストーリー

第112話 「若草山山頂への道」

2008.03.14

 今年の春。日ごろから何気なく眺めている若草山の頂上の木が花を咲かせた。桜だ。

 まさかこんなに遠くから見えるはずがない、と眼を疑った。奈良市役所に近いビルの一室の仕事場。雑居ビルの合間からうまい具合に若草山が見える。疲れた眼を休めるのに丁度いい。たびたび眺めるのが、癖のようになっている。

 雨に降られ花が散る前に、花の下まで行ってみようと思い立った。春もたけなわ、山の裏にある春日原始林から登ることにした。

 右手に水谷川を見ながら登山道は始まる。幾度かくねりながら頂上を目指す坂は整備されて歩きやすい。その分、天に向かう木々を眺め、鴬の声を楽しみながら歩くことができる。
  苔むした樹木の匂いだろうか、川の匂いだろうか、懐かしい安らいだ空気が体を包む。

 この春日原始林の木々が、双葉として土を突き上げた時から、いったいどれほど時間が流れたのだろう。想像もできない。気が遠くなる。そう思うと人の一生などほんの一瞬だ。精一杯生きても思うようにならないことの方が多い。「それでいいよ」と、この森がささやいてくれている気がする。あなたはあなたでしかないのだからと。

 心地よい汗をかき始めたころに山頂に着く。思いがけなくそこは春の嵐が吹雪いていた。桜の花びらが風に舞い幻想の世界であった。

 街中の選挙カーの声が風に運ばれてすぐ耳元で聞こえる。群れから外れた鹿がぽつんといる。
  街中から見た通りに桜の木はあった。桃源郷は遠くあるものが近くに見えるというが、山の上は近くに見えるのだろうか。市役所の方向を定めて毎日通っているビルの窓を探してみた。見えるはずがない。

 時々こうして俯瞰(ふかん)して住んでいる街を眺めるのはいい。「こうやって大仏さんがずっと座ってはる周りを煩悩抱えて私はあちこち右往左往しているんやわ」
  桜に呼ばれて参道を歩いた春だった。


奈良市 下農真知子 57歳

写真

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