特集

大和路 歌舞伎の舞台を訪ねて


400年以上の歴史を持つ歌舞伎。その豪華な衣装や派手な化粧はもちろん歌舞伎の魅力ですが、江戸時代から演じ続けられている物語には今でも通じる「日本人の心」があります。今回は県内にある歌舞伎の舞台を訪ねました。歌舞伎をより身近に、またその「心」を感じてみませんか。

つるべずし 弥助 〜「義経千本桜 鮨屋の段」〜

〈源平の戦いから逃れた平維盛(これもり)は下市の鮨(すし)屋、弥左衛門宅で弥助と名を変えて潜んでいました。そこに源氏方の追っ手がやってきます。維盛を助けようとする弥左衛門と、いわゆる放蕩息子の権太(いがみの権太)。その2人の思いが交錯して―〉

「権太は男のイメージを集約しているのでは」と話すのは「つるべずし弥助」49代目当主の宅田弥助さん(61)。代々当主は弥助を名乗り、戸籍の名前も変えるそうです。

話は江戸時代に書かれたフィクションですが、鮨桶のことなど詳しく描かれており、実際に作者が店を訪れて舞台にしたのではないかと宅田さんは話します。また家系の中で長男が家を出て、女性が家を継いでいるという代もあったそうです。そんな話から「いがみの権太」が生まれたのかもしれません。

「男は夢を追っているもの。夢を求めて家を出て、挫折したのが権太。家に帰りたいと思っても素直に頭を下げられない。そこで維盛の事件を利用して親との縁を取り戻そうとしたのではないか」。現代の若者の姿に重なるものもあります。

「つるべずし 弥助」

下市町下市533 TEL:0747・52・0008
  鮨懐石や鮎料理など、季節に応じた旬の料理を提供。裏庭には山を借景とした風景が望め、ノスタルジックな気分で料理を味わうことができます。また庭には維盛塚や、維盛に恋したお里の黒髪塚が残っています。

#代替表示#
立派なたたずまいの弥助。旬の料理が味わえる

壷阪寺 〜「壷坂霊験記」〜

壷坂観音は眼病平癒の観音として古くから信仰を集めています。壷阪寺は西国33カ所霊場の第6番札所です。執事の喜多忍さん(50)によると、それぞれの観音にまつわる霊験記があったそうですが、今に伝わっている話は壷阪寺のものだけだそうです。

盲人の沢市と妻お里の夫婦愛をテーマに、明治時代に三味線弾きの豊沢団平と妻の加古千賀が作り出した浄瑠璃が今に伝わっています。

〈お里は沢市のため、壷阪寺の本尊に毎朝そっと家を抜け出して参りますが、沢市はほかの男性と会っているのではないかと疑います。やがてお里の本心を聞いた沢市は「このまま生きていても仕方ない」と死ぬ覚悟をします。そんな沢市の決心を知らないお里は沢市と一緒に壷阪寺に参ります。お里を先に帰した沢市は谷から身を投げますが―〉

壷阪寺の本堂前には沢市が身を投げたという谷の前に2人の像が建てられています。一昨年には壷阪寺は創建1300年を迎え、中村勘九郎(現・勘三郎)さんと中村福助さんによる歌舞伎が実際に境内で行われました。劇場でなく実際に物語の舞台で行われる歌舞伎は初めてだったそうです。

「壷阪寺」

高取町壷阪3 TEL:0744・52・2016

http://www.tsubosaka1300.or.jp

お里と沢市
お里と沢市の像。さくの向こうが沢市が身を投げた谷

東大寺二月堂 〜「二月堂良弁杉由来」〜

「壷坂霊験記」と同じ作者による作品で、東大寺二月堂の前に今も植えられている「良弁杉」の伝説に基づいた話です。

〈東大寺の開祖である良弁は幼少のころ、鷲がさらってこの木に連れてきたと言われています。数十年が過ぎ、良弁はやがて高僧へと成長しています。そこに良弁の噂を聞いた母親が訪ねてきて―〉

長い年月、子を探して各地を訪ね歩き変わり果てた姿の母親。良弁と親子であることを確かめ合ったのが石山寺のお守りでした。石山寺は西国33カ所霊場の13番札所。ここに「壷坂霊験記」との不思議な縁が感じられると喜多さんは話します。

二月堂の前には元々樹齢600年の杉の大木があったそうですが、昭和36年に台風で倒れ、今は2代目の杉が跡に植えられています。二月堂から眺めると、良弁杉の向こうに大仏殿と奈良盆地が広がっています。その眺めの良さを思うと、今にも鷲が飛んできそうな気さえします。

☆トピックス☆

二月堂には良弁が鷲にさらわれる場面、高僧になった場面、母親に再会した場面を表した彫刻があります。

彫刻の写真

2月堂からの眺め
二月堂から見た良弁杉。向こうに大仏殿と奈良盆地が見える

妹背山 〜「妹背山婦女庭訓」〜

吉野川に沿って国道169号線を南下すると、左手にうっそうと木が茂る山があります。これが妹山で、大名持神社のご神体。人が立ち入ることのできない禁忌の山とされています。この妹山と吉野川を挟む背山を舞台に書かれているのがこの話です。

〈妹山は太宰の未亡人定高、背山は大判事清澄の領地で両家は領地をめぐって争っていましたが、定高の娘・雛鳥と清澄の息子・久我之助は恋仲。その両家に蘇我入鹿が難題も持ちかけて―〉

大名持神社によると、この神社の祭神の須勢理毘売命(すせりひめのみこと)は大国主命の妻で、2人が最初に住んだのがこの地だそうです。吉野川対岸の背山は妹山に比べてなだらか。妹山は天然記念物にも指定されており、人が入らないため吉野のほかの山とは違った原始的な自然を今も残しています。

江戸時代、この物語が書かれた時代も、この神社は今と変わらない風景だったでしょう。吉野川の流れは、神代から人々の営みを眺め続けています。

吉野川を望む
左が妹山、右が背山、間を吉野川が悠々と流れる

三輪の茶屋 〜「恋飛脚大和往来」〜

近松門左衛門の「冥土の飛脚」を歌舞伎として演じられているのが「恋飛脚大和往来」。大阪の飛脚問屋で働く忠兵衛が公金を横領し、遊女の梅川と故郷である新口村(橿原市新口町)に逃げてきます。その途中、奈良の旅籠や三輪の茶屋で数日過ごしています。

2人が立ち寄ったとされる三輪の茶屋は竹田屋という屋号の大名も泊まる本陣で、100人以上泊まれるような大きな宿だったそうです。昭和50年までは当時の建物も残っていましたが老朽化のため取り壊され、今は13代目の主人である田村恵三さんの敷地内に前栽の石を使って「梅川忠兵衛の碑」が建てられ、一般にも公開されています。

逃げる2人がどのような思いでこの宿に泊まっていたのか。2人の悲恋が実際に宿の子孫により語り継がれ、今も歌舞伎や文楽として演じられ私たちの涙を誘っています。

石碑
梅川忠兵衛の碑。茶屋時代に前栽に使われていた石を使っている

観音が結ぶ夫婦や親子の縁。また義理や人情など。人形浄瑠璃や歌舞伎などの芝居を通して数百年とこれらの演目が演じ続けられているのは、時代が変わっても私たちがこういった絆や縁を求め、心を動かされるものがあるからなのでしょう。


このページの内容は2005年9月23日現在のものです。





Web版リビングダイヤル 【引き受けます】 クイックピアノ調律 広告掲載案内


トップページ会社概要広告の掲載サーチ登録案内事業紹介ご利用の注意事項サイトマップお問合せ


当ホームページが提供する情報・画像を、権利者の許可なく複製、転用、販売することを固く禁じます。
特集ページへ戻る このページのTOPへ 特集ページへ戻る