光専寺・穴山梅雪の墓 (桜井市) 家康に続いて西へ 堺から大和を抜けたか
武田家重臣、穴山梅雪。母は武田信玄の姉、正室には信玄の次女と、武田家とは非常に近い親族関係にあったが信玄の死後、武田家当主となった勝頼との不仲が進み、織田信長、徳川家康側に翻ったとされる。
1582年の本能寺の変で信長が死亡。信長の死を知った徳川家康は、堺から伊賀を越えて、三河へ逃れたという「神君伊賀越え」は有名な話。家康とともに堺にいた梅雪は、同じく近畿地方を脱出するために移動中、京都府南東部の宇治田原で地元民の襲撃を受けて亡くなったというのが通説だ。
その穴山梅雪の年忌法要が桜井市の光専寺で行われたと聞き「京都で死んだはずが、なぜ桜井市で法要だろう」と不思議に思い、訪れてみた。
光専寺は本願寺派の浄土真宗の寺で、残っている資料などは少なく、創建は不明。本堂前にある立派なイチョウの木をすり抜けて奥に進むと、小さな五輪塔がある。「五輪塔の一番上にある宝珠形の石材のみが残り、その他の部分は行方が分かりません」と和田浩証副住職。現在の五輪塔は、法要のために用意したという。
和田副住職も武士の墓があるとは小さいころから聞いたが、約30年前に他界した和田副住職の祖父が、「穴山梅雪の墓がある」と話していたことを知り合いの住職から教えられた。激動の時代を生き抜いた梅雪だからこそ、この地で静かにしのんできたのかもしれない。
香芝市の歴史作家、上島秀友氏の『本能寺の変 神君伊賀越えの真相―家康は大和を越えた』(奈良新聞社)では、堺見物をしていた家康は、竹内街道から橿原市を抜け、宇陀方面に向かったという新しい説を紹介している。
寺の近くから見える二上山のすぐ南側に竹内街道がある。街道の起点は堺なので、上島氏の説は、夢のような話ではない気がする。
梅雪の墓は、京田辺市内にあることで知られる。地図を眺めると、堺から京田辺市は北東方向、桜井はほぼ東方向。「私なら東かな」などと、勝手な想像をしてみたが、刀を持った人がうろうろしていたと想像するだけで寒気がした。 (千)
アクセスマップ
光専寺
桜井市大福93
※このページの内容は2022年11月4日現在のものです。