金剛寺(川上村) 後南朝の哀史を伝え 560年以上続く儀式
大滝ダムを左手に見ながら国道169号線を南下。左折して橋を渡ると神之谷(こうのたに)という集落に入る。しばらく進むと人気のない山道になり、この道で合っているのか不安になったころ、目指すお寺はあった。
朝拝式という儀式が毎年2月5日に行われる金剛寺。後南朝史の中心となる寺という。そもそも「後南朝」という言葉を聞いたことがなかった。
建武の新政後、北朝と南朝という2つの朝廷が存在する南北朝時代は歴史の授業でも習った。室町幕府3代将軍足利義満の時代に、南北朝合一が行われたと習ったように思う。
その後の話である。南朝の後亀山天皇の時に南北朝合一がなされたが、和解条件に南北朝が交代で天皇を立てるという約束があった。しかし北朝はその約束を守らなかった。
そこで後亀山天皇の皇子・小倉宮は吉野に戻り、南朝復活の思いは後南朝としてその子・尊義王や孫へと受け継がれる。
尊義王が亡くなった後、子の自天王と忠義王は南朝方の忠臣や郷民に守られながら暮らしていた。しかし1457年。赤松家一族により両方の御所が襲われて、若い二人の皇子はあえない最期を遂げたという。
金剛寺の境内には宝物庫があり、自天王が着用していた鎧や兜が保管されている。国の重要文化財である遺品の武具を年に一度見ることができるのが2 月5日。自天王をしのんで行われる朝拝式の時ということだ。
村の教育委員会によると、毎年100人~150人ほどが山深いこの寺で行われる式典に訪れるそうだ。毎年欠かさず行われ、今年で561回目と伝わっている。「菊のご紋が入った裃を着用して行われる行事が、江戸時代や戦時中も途切れず長く思いを伝えてきたことに意味がある」と教育委員会の上嶋教孝さんは話す。
人里離れたこの寺から山を見渡すと、のどかな風景が広がり血生臭い事件とは無縁に感じる。遥か昔の皇子をしのび、560年以上も続けられてきた式典があることに、日本人の情の深さのようなものを感じた。(久)
アクセスマップ
川上村教育委員会
TEL:0746・52・0144
※このページの内容は2018年8月3日現在のものです。